このところ「寄席」のご報告もすっかりご無沙汰でございます。寄席に通うことができない日々の中で、これまで味わった演芸の記憶が頭をよぎります。
　昭和５６年1月に林家彦六に改名して、1年後に亡くなった八代目林家正蔵は私にとって懐かしい噺家です。八代目正蔵（以下「林家」とも表記します）にまつわる多くの思い出の中からお話をいたします。

１）平岩弓枝作「笠と赤い風車」
　昭和40年11月、東京落語会での口演で林家正蔵が芸術祭奨励賞を受賞した新作の人情噺です。生（な）さぬ仲の母親と息子の行き違った情愛を描いた作品で、しみじみとした余韻が感じられたことを今でも覚えており、時おりは手元の音源で味わっています。味わうというのは、必ずしも再生して聴くことだけではありません。CD棚においてあるケースの背中の文字を目にするだけでも、林家の声音が蘇ってくるのです。

　「人の親の心は闇にあらねども、子を思う道に迷いぬるかな…、という古歌がありますそうで、親御さんが子供衆を思うという心根はひとしおでございますな…」

という語り出しの噺は、自分の母親が生みの母ではなくその妹であることを、まわりの心無い人に吹き込まれてグレだしてしまった息子と、そのことを悲しみながらも愛情を注ぎ続ける義理の母の姿を描いています。
　眼目の「赤い風車（かざぐるま）」は獏連（ばくれん）女に騙（だま）され、金を持ち出して旅に出る息子に持たせた笠に付けてあげた実の母の形見です。途中で正体を現した悪者たちに金を奪われて水路に投げ込まれた息子を首に括り付けていた風車の傘が助けます。眼が覚めた想いで、母親に会いたくなって急いで家に戻ると、母親は臨終の床にいます。
　そばに付き添う妹から、毎日仏壇の前で息子の旅の無事を祈っていた母親が、今朝見ると体がぐっしょりと濡れて、何かを支えるように手を上に伸ばしていたと聞く。顔にかけてある手拭をとってみると、いかにも力尽きて、もうあきらめたような、それでも、なにか安心したようなおだやかな顔。

　「おっかさん…、おっかさん…、おっかさァん（と、すがりついて泣く）」
息子・常吉の背負っている笠の、赤い風車が、くるくる……、くるくるくるくる…（一段と勢いをまして）くるくるくるくる、くるくるくるくるッ……。

　下げの　「くるくるくるくる、くるくるくるくるッ……。」　で手をまわしながら声をはりあげて、ひと息、正面を向いてお辞儀をして高座を降りる林家の姿がいまも目に浮かんできます。

２）「林家正蔵随談」のこと
　私が大学時代の昭和42年６月に「林家正蔵随談」（麻生芳伸編　青蛙房刊）が出版されました。その頃、上野広小路の路地にあった本牧亭で毎月三十日の晩に開かれていた「林家正蔵の会」に通っていた私は、正蔵師が噺のまくらで語る随談が好きでした。そのときどきの話題を林家流の言葉で聴くことも楽しいのですが、ひとことひとこと、言葉をつないでゆく「間」の心地よさに引き込まれていました。
　その「随談」が本になったので、発売されるとすぐに入手しました。自身の来し方行く末や、信条に加えて、寄席の楽屋奇人伝などを興味深く読みました。その後、昭和49年５月、６月に相次いで発刊された「林家正蔵集　上／下」（東大落語会編著　青蛙房刊）とともに、わが家の書棚に据えられています。ご紹介した「笠と赤い風車」は「林家正蔵集　上巻」に収録されております。

３）昭和43年の紫綬褒章記事
　私のクセで、所蔵の本と関連のある新聞記事の切り抜きを表紙の間に挟んであります。「林家正蔵随談」の表紙裏からは昭和43年11月15日の読売新聞が出て来ました。その中に、林家を含む37名の芸能関係者への紫綬褒章受章が報じられています。受章者の顔ぶれをみて唖然としました。寄席・芝居・音曲を私に教えてくれた懐かしい名前が並んでいるのです。

　昭和43年紫綬褒章受章者一覧より（掲載順に抜き出し）
　�@文楽太夫＝生田巌（竹本綱大夫）（64）大阪
　�A新内節＝井上猛（岡本文弥）（73）東京
　�B長うた＝太田重次郎（吉村伊十郎）（67）東京
　�C落語＝岡本義（林家正蔵）（73）東京
　�D作曲＝古賀政男（63）東京
　�Eかぶき俳優＝祖父江由良（中村芝鶴）（68）東京
　�F文楽三味線＝西内重男（野沢松之輔）（67）東京
　�Gかぶき俳優＝林好雄（中村鴈治郎）（67）京都
　�H端唄・俗曲＝藤本婦美(二三吉）（70）東京
　　　　＊表記（長うた、かぶき俳優）はママ

　思わず眼を見張るような、豪華な顔ぶれです。綱大夫で義太夫を聴き、文弥さんの新内の会へ通い、伊十郎の長唄で踊りを楽しみ…、そして林家です。このような人々が活躍していた昭和40年代前半に、大学生活をしながら、良い芸に出会えた仕合せをしみじみとかみしめています。

４）林家の「戦中日誌」発掘
　一昨年の暮に書店で見つけた「八代目林家正蔵の『戦中日記』」（2014年、青蛙房）という本があります。これも青蛙房の出版と知り、迷うことなく入手しました。

　「戦中日記」には日米開戦の昭和16年12月から終戦の20年8月まで、五年に亘る日記が収録されています。林家の七十年に及ぶ芸歴の中で、「戦中日記」の書かれた時期は1941年から1945年、林家が五代目蝶花楼馬楽を名乗っていた46歳から50歳の働き盛りに相当します。従って日記は馬楽の名で記述されていますが、落語家としての活動の中で関わりを持った師匠、兄弟子、仲間たちを含む当時の芸人社会を垣間見ることができます。

　日記の中で大きな割合を占めるのは寄席の状況や自身の演芸、仲間や関係者との付き合いに関することですが、時期が時期だけに常に戦争の影が重くのしかかっているのを感じます。

　林家は「とんがり」の異名をとり、寄席や仲間との付き合いの中では時として妥協しない頑固な面もあったと聞いていますが、その本音が聞けるよう気がして興味深く日記を読みました。
　日記の中には、その日出演した寄席（多くは掛持ち、４軒の日もあり）の名、お客の入り、給金（ワリ）の明細が記録されており、その面からの芸能資料としても大きな価値があります。これも率直な記録を心掛けていたと思われる林家の大きな遺産です。

　付記：「青蛙房（せいあぼう）」について
　青蛙房は、私にとって懐かしい本屋さんです。六代目三遊亭圓生の「全集」が最初の出会いで、たしか昭和３８年頃だったと思います。その後も、柳家小さん（上下）、桂三木助と続けて手に入れました。青蛙房の創業者・岡本経一さんは劇作家・岡本綺堂のご子息と聞いています。社会人になってある時期、本郷真砂町の勤め先に近い弓町にあった青蛙房を訪ねて、事務所奥の書棚で本を探すのを楽しみにしていました。「粋でいい本を出している版元」として評判の高かった青蛙房も後継者が亡くなり、３年前に幕を閉じました。
　こうして、ひとつひとつ大切な思い出が失われていくのは寂しいことです。