え〜、先日お正月を祝ったと思ったら早や二月です。二月は「逃げる」というくらいですから油断がなりません。すこしでも有意義に過ごしたいものです。その二月、大阪出張の帰りに京都へ寄り道をしてきました。阪急で梅田へ出てJRで京都へ向かい、まずは駅から近い東本願寺を目指しました。

　東本願寺には御縁があるので、年に一度くらい出張の折にお参りをしています。皆さまご存じだと思いますが、東本願寺の門前、烏丸通を渡った東側一帯は仏具、法衣、を売るお店や参詣の方々の宿が軒を並べています。「法蔵館」という仏教関係の出版社も路地にお店を開いています。

　現在、東本願寺はご修復の最中で、御影堂（ごえいどう）がすっぽりと巨大な覆いで隠れています。左隣の阿弥陀堂でお参りをさせてもらってから境内の出版部売店を覗いてから、烏丸通を渡り正面の路地を法蔵館に向って歩いていると、浄瑠璃「新口村」のひと節「京の六條数珠屋町」がふと浮かんできました。京都駅から烏丸通を北に向かって七条通を渡ったところが東本願寺ですから、このあたりは六条に近い。数珠屋町？お数珠を売る店も軒を並べている。そう思ったら路地の散策をしてみたくなりました。

法蔵館のある路地を突き当たったところに渉成園（枳殻邸：きこくてい）と呼ばれる庭園があります。入口の案内板によると、ここは東本願寺の別邸であったようです。寛永年間に徳川家光から寄進を受けた当時は鴨川まで続く大きな庭で、さらに古くは平安の初めに左大臣源融（みなもとのとおる）が営んだ「河原院」の跡地であるとのこと。河原の院では陸奥の塩釜を模して塩焼きまで行われていたという逸話を「融」というお能で拝見した覚えがあります。「融のおとど」にいきなりぶつかって、しばしとまどっていると、傍らに「文子天満宮」という案内表示が出ていて、「文子」には「あやこ」とふりがなが付いています。北へ３００ｍと記されているのを見て、足が自然とそちらへ向かいました。

天神様といえば東京で身近な湯島、亀戸から大阪では天満の天神さん、お初天神、道明寺天満宮、はては大宰府まで、結構親しくさせてもらってますが、「文子天満宮」は名前さえ知りませんでした。間もなく道の左側に現れたこじんまりしたお社が文子天満宮で、由緒書きによると「菅原道真公の乳母であった多治比文子が道真公の没後、自分の家の庭に小さな祠をもうけておがんでいたところ、天神となった道真公が北野に祀ってもらいたいと託宣した」ところから「北野天満宮の前身神社であり、天神信仰発祥の神社」であるとのこと。これはどうも、知らぬこととはいいながら恐れ入りました。融の大臣といい、菅公といい、何気ない路地に佇んでいるところが京都ですね。

ところで問題の「数珠屋町」ですが、文子天満宮へ向かう途中、右側の町屋のかべに古ぼけた所表示が掛かっていて「下京区間之町通上数珠屋町下ル打越町」と読めました。これで、「京の六條数珠屋町」がこのあたりであることが極まりました。それにしても長い町名です。文子天満宮にお参りして、社前の梅の花を写真に撮ってから、天満宮の手前で横切った小路が「上数珠屋町通」と見当を付けて、本願寺へ向かって歩きました。ここにもお数珠や法衣を商うお店が並んでいます。帰宅後、改めて地図を開いてみると、数珠屋町は東本願寺の西側、西本願寺門前との間にもつながっていることがわかりました。西本願寺にはあまりお参りしたことがありませんが、次回はそちらの方へも足を延ばしてみたいと思います。


　浄瑠璃に馴染みのない方もおられると思いますが、「京の六条数珠屋町」というのは、近松門左衛門の作品「冥土の飛脚」の改作「傾城恋飛脚」で公金を横領した飛脚問屋の亀屋忠兵衛が遊女梅川を連れての逃避行「新口村」の段で、故郷新口村に辿り着いて喜ぶ忠兵衛に対する梅川のせりふの一節です。

　それは嬉しうござんせう、去りながら私がとゝ様かゝ様は、京の六條数珠屋町、定めて此間（このあいだ）詮議に合ふて居さんせう、かゝ様は眩暈持（めまいもち）、若（もし）もの事は有るまいかと、我身のうへより案じられ、今一度京の両親（ふたおや）に、一目あふて死たうござんす

　この言葉に梅川の境涯がすべて表れているようで哀れです。義太夫では「京の六条数珠屋町」のあと、特徴的な三味線の手が付いていて、「じゃらじゃらじゃらんちゃらん」という。してみるとあれはお数珠を揉む音だったかと思い当たります。

「京の六条数珠屋町」という語呂の良いひと節を思い出すだけで、いま歩いている京都の小路が芝居の世界に重なって、おそらく生活苦から両親を助けるために大阪へ遊女に出た梅川の身の上、罪人となった忠兵衛と一緒に「大坂を立ち退いた」我が身のために両親にまで追及の手が及んでいるであろうことを案じるけなげさを思い浮かべることができます。

　筆者の知人で芝居好きの方が愛猫を交通事故で亡くされたとき、「寺子屋」（菅原伝授手習鑑　四段目）のセリフになぞらえて「何の因果にワクチンまで仕舞うたことじゃと」悲しんでおられました。これはわが子を身代りに差し出した松王丸の妻、千代の「何の因果で疱瘡まで仕舞うたことじゃと咳上げて…」になぞらえた嘆きでした。嬉しいにつけ、哀しいにつけ、浄瑠璃の文句がふと浮かんできてそれを反すうすることで気持がやすらいでいくということがあるように思います。

　演劇評論家の渡辺保さんが「歌舞伎という宇宙」（筑摩書房 1991年）の中で述懐されているエピソードもそのひとつかと思います。大変印象的な文章なので少し引用してみます。

虚構の言葉がもつ力（渡辺保「歌舞伎という宇宙」筑摩書房１９９１年）
　しばらく前に、娘が病気になった。医者は、娘の症状をみて、この病気には三つの原因がある、といった。三つの原因のうち、二つまでが不治の死病である。もし、そのどちらでもなければ、助かるだろう。しかしそのどれであるかは、精密な検査をしてみなければわからない。
　私は、その診断をきいた夜、ほとんど眠ることができなかった。わずかに眠りにつくと、たちまち娘の葬式を出す夢をみた。翌晩、検査の結果をきくために、私は病院へ行った。（中略）その廊下を歩きながら、私はふと自分が「兎にも角にも世の中の、子という文字に死の声の、あるも定まる宿業」という文句を、くりかえしていることに、気がついた。『妹背山婦女庭訓』三段目「山の段」の一節である。（中略）
　幸いにして私の娘は不治の死病ではなかった。娘は元気になって、病気であったことも忘れたようである。しかし、私は、あの暗い廊下で、異常な強さで、私のなかによみがえって来た浄瑠璃の文句を忘れることができない。（後略）

　この後、渡辺氏は「あの文句が私を救ったのである。もしあの文句がなければ、私は気が狂ってしまったかも知れない」と記しています。浄瑠璃の文句で救われるというのは、あることではないでしょうか。

　昔、学生時代にある人から紹介されて、暮の南座で「顔見世」に出演していた役者さんを訪ねたことがあります。紹介者の名前を告げると、その人は学生の私たちを近くの喫茶店に連れて行って、珈琲をご馳走してくれました。その時にいろいろな話を聞きましたが、「芝居をたくさん見ておくといいですよ」と言われたことがいまでも記憶に残っています。芝居の効用などという表面的なことではなく、芝居を通してたくさんの人生を印象的に味わえることをそういう言葉で教えてくれたのだと思います。

　「京の六條数珠屋町」から思わぬ小路に迷い込んだようです。本日はこれまでとします。


あとがき：
　関西へ出張して時間が出来ると「さあ、どこへ行こうか」と考えるのが楽しみです。
　京都も行ってみたいところ、再訪したい場所がたくさんあります。今回は、特にどこへ行くあてもなく、とりあえず（ビールではありません、済みません）お参りした東本願寺から時間の許す範囲で付近を散策したのですが、思いがけず楽しい時間を持つことができました。
　天神様や融の大臣が出てくる京都の町では、江戸の時代はついこの間のことのように思われます。芝居や浄瑠璃を仲立ちとして土地々々の雰囲気を味わうのがこのところのひとり旅のパターンになっています。

　この日はバスにも地下鉄にも乗らず徒歩だけで散策を終えて京都駅に戻った後、新幹線の時刻まで駅構内に出店した“にしん蕎麦”の老舗「松葉」でゆったりした時間を楽しみました。